B型肝炎と訴訟問題を考える

はじめまして。 B型肝炎に感染し、これまでとてもつらく、苦しく、悲しい思いをされたことでしょう。ここでは一緒にB型肝炎と訴訟問題について考えていきたいと思います。ここでの知識が、あなたのお役に立ちますように。

2019年10月

肝炎患者さんのための一日一語『美点凝視』



あばたもえくぼ、ということわざはみなさんご存知のはず。一度好きになった相手は欠点でさえもすてきに見えるという意味です。この対義語に、坊主憎けりゃ袈裟まで憎い、というものがあります。

人はもちろん、世の中のありとあらゆる物事は無限に切り口を作ることができます。空を見てきれいだな、すてきだなと感じる人もいれば、寒々しいな、寂しいなと感じる人もいることでしょう。でも、空は空であってそれそのものに意味があるわけではありません。いつも泰然自若として私たちを見守っているだけです。

B型肝炎はネガティブに捉えられやすいものです。実際、肝炎ウイルスのせいで生活に支障をきたしたり、仕事ができなくなったりした人もいることでしょう。中には偏見や差別にさらされるのではないかという窮屈な思いをした人もいるかもしれません。もっと細かいところだと数値ぎりぎりのセロコンで治療を受けるかどうか悩む人もいるでしょう。副作用の大きなインターフェロン治療の判断に困る人もいるでしょう。

肝炎はときに人に難しい決断を迫ることがあります。バラクルードを服用すれば子どもが作れなくなる可能性もあります。後戻りができなくなる可能性もあるでしょう。しかし、それであっても自分の命にはかえがたいはずです。

よく観察してみないとわかりませんが、人の感情は連鎖します。つまり、気分が悪いことを考えるとどんどん気分の悪い想像ばかりが連鎖してゆきます。やがてそれは行動にも伝播してゆき、最終的には「なんだか運の悪い出来事ばっかり起こるな」ということにもなりかねないでしょう。

だからこそ、何かを見る際には良い面をなるべく見るように心がけましょう。肝炎にかかったからこそ、多くの人の恩愛を感じることができた。人の本質を見ることができるようになった。生きてゆくことや命の大切さを誰よりも知ることができた。これらはすべてかけがえのないこと。

そもそも人生とは苦しいものです。誰でもそうです。そうして真っ暗な夜空にぽつんぽつんと星が見えるように、ときどき嬉しいことがあるものなのです。だから、たとえB型肝炎であっても、それによって生じた良い出来事に目を向けるように心がけましょう。これを行うかどうかで、五年後、十年後の自分の幸福度がまるで違ってくるものになるはずです。

肝炎患者さんのための一日一語『比叡山十二年籠山行』



『致知』という雑誌があります。経営者の方なら耳にしたことがあるかもしれません。孔子や王陽明など、東洋哲学を掲題に、毎月著名な経営者が社会へのありかたを述べている経営誌です。

2015年12月号に宮本祖豊氏および光永圓道氏の両住職による対談がありました。お二人とも死を賭した大変な荒行を満行された方です。

今回、宮本氏が述べられた内容がとてもすばらしく、肝炎患者さんにもきっとお役に立ちますので、一部を抜粋いたします。



比叡山十二年籠山行満行者
比叡山延暦寺円龍院住職 宮本祖豊氏

宮本:(略)私にとって最大の難関であったのは、浄土院で最澄上人に使える前に、身も心も浄めるために行う好相行でした。

浄土院の拝殿の奥の間で『仏名経(ぶつみょうきょう)』に説かれている三千もの仏の名前を一仏一仏唱えながら、焼香し、お花を献じ、そして五体投地、つまり両膝、両肘、額を床につけて礼拝し、そして立って、また体を折り曲げて礼拝する。三千仏ですから、これを一日三千回行います。それを仏さんが目の前に立つまで続けるのです。

(略)

歴代の満行者はだいたい三か月、三十万回ほどで目の前に仏さんが立つと言います。ところが、私は何か月やっても見てこないのです。見えるまでは何年でも続けなければならないのですが、行の最中はずっと眠らず、横にもなりませんから、どんどん痩せて首が細くなり、首がガクッと落ちて上がらなくなる。両手両足は割れて血が溜まり、膿んでくる。そのうち目の焦点が合わなくなり、平衡感覚を司る三半規管まで狂ってきて立っていられなくなり、九か月経ってとうとうドクターストップがかかりました。

礼拝を続けながら体力を回復させ、一年近くかかって再開しました。今度こそは、と決死の覚悟で臨んだのですが、やはり仏さんは一向に現れない。季節は冬になって、手足はまた割れて化膿し、体もどんどん冷たくなって麻痺し、顔は蝋(ろう)人形のように真っ白になる。死がすぐそこまで迫っている感覚がありました。

(略)

私の心境としては、もはや出し尽くしてしまってどうしようもないという思いでした。いまから振り返ると、仏さんを感得するにはそういう精神状態になることが求められていたわけですが、二度のストップがかかるほど私は多くの煩悩を抱えていたということなのでしょう。その囚われが、死の淵まで追い込まれてようやく消えたようで、三度目の行が始まって一か月ほどで目の前に仏さんが立ちました。

(略)

なぜそこまでしなければならないのかというと、自分の精神レベルを上げるためには自分の体を犠牲にしなければならない。それが行というものです。楽をして精神レベルが上がるものならそれに越したことはありませんが、レベルが上がるのに見合うだけの苦しみを自ら体験していかなければ、人間は一歩も成長しないのです。

満行したのは平成二十一年九月十一日ですが、不思議と達成感は湧いてきませんでした。一生が修行であり、死ぬまで自分の精神レベルを上げていくという目的がありますので、ある一定の期間が終わったからっこれでいいという気持ちにはならなかったのです。

ーーーー引用ここまでーーーー

大変に高度なお話ですが、こう捉えることもできるのではないでしょうか。

ここに一つのビー玉があります。このビー玉は一秒に一回回転します。そして回転するごとに色が変わります。一回回転すれば赤、二回目は青、三回目は黄色・・・そして八秒目、八回目に回転が止まります。

さて、ではこのビー玉を人に説明するにあたって、一体何色のビー玉だといえばいいでしょうか。

最初の色は最初の一秒だけ。最後の色は最後の一秒だけ。それらは正確ではありません。どうしても説明するのであれば、先に述べたように説明するしかありません。

もしこの八秒を八十年にしたらどうでしょう。人の一生になるのではないでしょうか。そして一つのことをずっと続ける。最後の最後の瞬間まで一つの色であり続けたのであれば、それはその色として完成します。

B型肝炎は身体はもとより、心にもつらい病気です。自分のせいではなく、社会の不如意によってウイルスとともに生きてゆかねばなりません。

ときに嘆きたい気持ちにもなるでしょう。悲しい思いもするでしょう。でも、肝炎と出逢うことで自分の魂・こころを磨き上げ、ただ嘆き苦しむのではなく、肝炎に対して自分はどう在りたいのかを立脚することはできるはずです。

あいつのせいで、こいつのせいでというのは簡単です。肝炎に関わりなく、世界中のほぼすべての人が毎日絶えずそう思っています。でも、それに対して自分はこのように関わろうと前向きに、かつ明るく主体的に思うことができれば、自分の魂という名のビー玉はより尊く光り輝くようになるでしょう。

肝炎患者さんのための一日一語『一期一会』

「いちごいちえ」は有名な言葉です。慣用句としても使われるほどに多くの方になじんでいることでしょう。ほとんどの人は一期一会の意味を、人との出会いは一度きりだから大事にしよう、とか、もしくは、一度だけの出会いのように人を大事にしよう、といったかたちで捉えています。

その言葉の捉え方は別に間違っているわけではありません。人を大切にするのはとても尊いことです。ただ、この言葉にはもっと深い意味がこめられています。

わたしたちは一人ひとりが世界を持っています。自分の親・兄弟・伴侶や子どもに対する愛情は、他の人にはけっして理解できないものです。お葬式で故人を偲ぶ際、たくさんの人が集まり、悲しみます。でも、その故人にどのように関わっていたのかはそれぞれです。

そのような意味で、わたしたちは一見似ているように見えて、それぞれがそれぞれの世界を生きています。

そしてまた、わたしたち一人ひとりであっても、絶えずその心はうつろってゆきます。おもしろくない出来事でイライラしている最中、セミの声を聴いても「うるさいな」と思うだけでしょう。でも次の瞬間、少し前に告白した異性から良い返事をもらったとしたらどうでしょう。たちまちセミの声は「うれしいなあ。セミの声が聴こえる。ああ、夏だなあ」とうっとり心に染み入るはずです。

わたしたちを取り巻く世界も、周囲も、人々も、そして自分自身の心も身体も、まるで小川のせせらぎのように縷縷(るる)変化し続けます。この意味で、今この瞬間に出逢うすべてのもの、すべての人、そして自分自身の心をも含めたすべての思いは、今この瞬間を逃せば二度と出逢うことのできないものなのです。

B型肝炎に罹患して苦しさを感じたとき、その思いを手放して、ただ無常に変化し続けてゆく、自分を含めた世界の一切合切を、ただ何も思わずに見つめてみてはいかがでしょうか。きっと心が落ち着いてくるはずです。

肝炎患者さんのための一日一語『虚其心』



“そのこころをむなしくす”と読みます。元は『老子道徳経』が出典であり、その内容はおおよそ以下のようなものです。

「民が争うのは賢者を尚ぶからである。泥棒が現れるのは宝物が出るからである。心が乱れるのは欲があるためだ。聖者が天下を治めるためには、民の欲望を鎮めねばならない」

これは帝王学の一種ともいえる箴言ですが、B型肝炎に悩むわたしたちの生活にどう応用すべきでしょうか。

それは民のかわりに自らの心を鎮めることです。国も社会も、そして自分の知り合いですら、こちらが変わってもらいたいとどんなに願っても、それらは決して変わることはありません。苦心惨憺しながらも、唯一変わることができるのは己の心だけ。

肝炎にかかればB型肝炎ウイルスに歯噛みして体調を気遣いつつ、日々の生活を送ります。肝炎のせいで仕事でひやひやしたり、人間関係に余計な摩擦をもたらさないかを考えます。

でも、世界はもっとシンプルなものです。わたしたちがいかに生きるかを誰かに教えられ、それに従って生きるのは楽なことです。あなたがB型肝炎に感染したのは、やれ先祖の行いが悪いからだの、なんとかいう神さまにお布施をしないからだのと、そういう言葉に従うのは楽ちんです。

でも、虚心坦懐に世界を眺めれば、誰しも心のどこかでうっすら気づいていたことが言葉にのぼってきます。自分がなぜ生きているかに意味はありません。どう生きてゆくかにも意味はありません。世界はただ見たまま、あるがままに存在するだけであり、肝炎ウイルスに至ってもそれは善悪とは関係がないのです。

人生に意味なんてない。世界に意味なんてない。だからやりたい放題やれば良いというのは愚かな者が陥る考えです。なぜなら、今この瞬間ですら、世界中で多くの医師たちが肝炎ウイルスを根絶する薬を研究しているからです。肝硬変を和らげる治療法や、肝がんを治す治療法を研究しているからです。

彼らはみんなB型肝炎感染者の苦しみ、悲しみ、嘆きを知っています。わたしたちを思って懸命に努力してくれている人たちでもあります。

だからこそ、わたしたちも、わたしたちなりに、今与えられている役割を精一杯こなしましょう。検査を受ける必要があるのなら、めんどうであっても検査を受けに行く。治療をするのであれば、日々の生活ももっと健康になるように尽力する。

その上で、もし多少の力が余ったのであれば、今世界のどこかで飢えている人に少しだけでも力を添えてあげましょう。日本であればすぐに治療できるような病気で死に瀕している貧しい国々の赤ちゃんを助けられるように、少しだけ気持ちを割いてあげましょう。

わたしが頑張れば、今、世界のどこかで苦しんでいる誰かが笑顔になる。

それに気づけることは、人として最も尊いものであることは間違いないはずです。

肝炎患者さんのための一日一語『毒矢のたとえ』



有名なお話ですからご存知の方も多いでしょう。矢が刺さって血がどくどく出ているのに「この矢は誰が放った。弦は何でできていて、矢羽は何でできているなどと考えてもしょうがない。早く引っこ抜くことが大事なのだ」という仏教のたとえ話です。

わたしたちは何でも知りたがります。何でも知りたい、わかりたいという気持ちを持っています。宇宙の果てはどうなっているのか、死んだらどうなるのか、幽霊はいるのかいないのかなど、とにかくどこまでも何でも知りたがります。

でも、本当に大事なことには目をつぶります。「う~ん、めんどくさいなあ」と思います。これはB型肝炎訴訟についても同じです。

「B型肝炎訴訟? 弁護士に頼むの? なんだかおおごとだな。めんどうだな」と思うかもしれません。「悪いのは国だ。俺はひとつも悪くないぞ」と思うかもしれません。

B型肝炎問題で国が悪いのはみんなが知っています。誰もそれを否定しません。でも、国が悪いからと大声で叫んで自分の正しさを訴えることと、今身体にささっているB型肝炎ウイルスという毒矢を引っこ抜くことはまるで別なのです。

肝炎ウイルスはいつ活性化するかわかりません。身体に毒矢がささっているのにそれを引っこ抜かずに「国が悪いからこんな目に遭った」といってもしょうがないのです。

まずやるべきことは自分の身体を自分の責任で、なるべく少ないリスクと手間でケアすることなのです。自分で毒矢を抜かなければ、誰も助けてはくれないのです。

他の誰も自分を助けてはくれません。だからこそ、今、肝炎訴訟を行うことは大切なのです。